蕎麦屋の覚悟

体験談

小生は無類の蕎麦好きなのだな。現在は福岡県在住なのだけれど、うどんの名店に行くと蕎麦もメニューに書いてある。っで、“肉蕎麦”みたいなのを注文すると。

「えっ?!!! 蕎麦ですか???」

みたいな感じで驚かれる。

たまたま座った席がキッチンを壁際に隣接した場所で、ホールスタッフが小生の注文をキッチンに告げる声が聞こえる。

キッチンからは、

「えっ?!!! 蕎麦ですか???」

っと、同じ悲鳴が聞こえる。       確認が必要なほど衝撃的に稀な注文のようだ…

愛知県を境に、西はうどんで東は蕎麦に偏っているようである。理由は解らない。

あの嚙んだ時に“ボソボソ”とした感じの独特な食感の手打ち蕎麦は言うまでもないが、立ち食い蕎麦などのふにゃふにゃした麺でも大丈夫である。蕎麦と名の付くもの全てよろしい。

話は変わり、

所は長野県では無い。岐阜県なのだが長野県と県境の近くになるかな…

蕎麦専門店である。

古民家を改装しているので、店舗入り口に土間があり、靴を脱ぎ備えてあるスリッパに履き替えないといけない。

この店、真冬でも温かい蕎麦はメニューに無い。基本、冷やし麺のみで、あと“天ぷら”があるが都心の様に海老天やキス天イカ天などは付か無い。当地で採れた新鮮な野菜だけの天ぷら。メニューはその二択のみ。

また、この店は注文を聞いてから、蕎麦を練りだす→麺切り→茹でる→冷水で〆る。

所謂、“蕎麦の三たて”を忠実に守っているのである。なので、注文から提供まで最速でも30分近くかかる。前のお客さんの注文があれば、当然それ以上の待ち時間を覚悟しないといけない。

厨房を覗くと、初老の親父が一人、天手古舞しているが、ホールは人の良さそうなおばさん二人が、頬杖をついてオーダーが出来るのを待っている。

店主の親父は、三人前の蕎麦がオーダーされると三人前の蕎麦粉を練りだし、一人前だと一人前分の蕎麦粉しか練らない。

徹底的に時間効率を度外視しており、哲学的なものを感じる…

小生が待たされたのは、前客も居たのでおよそ45分。

ホールのおばさんが持って来るかと思えば、然にあらず…

なんど初老の店主自ら厨房を抜け出し、小生が注文した蕎麦を携えて来た。

小生の後から入店したお客さん達で、店内はすでに満席状態なのに…である。

そして小生の居るテーブルの前に立ち、愛しむ様に両手でそっと蕎麦を置いた。

店主曰く、

「先ずは、そばつゆを付けず、そちらに備えてある“岩塩”を少しだけ付けてお召し上がりください」との事。

「わかりました」と短く答えたのだが、店主は一向にその場から立ち去る気配が無い。小生が岩塩で蕎麦を食すのを見届けるまでは一歩も動かないつもりの様だ。

急かされるように云われるまま、岩塩を少しかけて食べてみた。確かに、蕎麦の香りが強くしっかりしたコシのある麺である。

店主が、小生の顔を覗き込んで「どうですか?」訪ねて来たので、「感激しましたっ!」少し大げさに答えた。すると店主は、ドヤ顔でニンマリして厨房へ帰って行った。

毎度の提供時に、この“寸劇”があるのかと様子を伺っていると、やはりそうである。

あちこちのテーブルまで蕎麦を運び「どうですか?」を繰り返している。

この域に達すると、もう商いではないな…

店主と客の上下関係が逆転し、店主は究極の蕎麦を提供する上の立場に位置し、我々はその“芸術作品”を有り難く頂く下の立場に配する。

「出るのが遅い…」などの文句は絶対に云ってはいけないのである。云えば麺棒で叩き出される事になる。

不思議と蕎麦店を始めた人は、“蕎麦を極める”傾向が多い気がする。

始めは人通りの多い場所で出店して、こだわった産地の蕎麦粉を宅急便などで送ってもらうのだが、やがて店舗から出る“水質”の限界に気が付く。

蕎麦は、練ると茹でる過程で大量の水を使うのだが、水道水は地域によってはカルキ臭を感じたり、また、古い建物だと給水管の経年劣化で金臭くなる事もある。

旨い蕎麦を練るための水を求めて、旨い湧き水が出る山岳地帯に店を移動する。

当然、週末には登山家ぐらいしか店の近くを通らない様な辺鄙な所になる…

 そういう所じゃないと“旨い水”は無いのである。

 しかし、ここまでくると店主は己の人生を豊かにする為に蕎麦を打っているのではない。苦行僧が如く、ただただ旨い蕎麦を極める為だけに蕎麦を打つのである。

 この辺りで、“おとこのロマン”を理解できずに見切りを付けて、嫁は子を連れて家を出て行く

 そして数十年が経った死の間際、何十年と蕎麦を打ち続けて未だ“達観”に至らない蕎麦の人生を想い返し、悶々としながら一人孤独に死んで行く…

 蕎麦屋を始めようと考えている諸兄、よくよくご検討されたし。

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